堕ちた天使と、壊れた妹

 とある山の山奥に、一人の青年が住んでいた。
 その青年は、頭が良かった。
 なまじ頭が良かったせいで、根も葉もないうわさを流され、あまつさえ、兄殺しの汚名を着せられてしまった。
 確かに、青年の兄は死んでいる。
 だがそれは、青年のたくさんいる兄のうちの一人がしたことだった。
 青年は兄殺しの汚名を着せられてしまったために、国外追放の罰を受けた。
 だが彼は、そんな自分を悲観してはいなかった。
 面倒な相続争いから死ぬことなく開放され、自由になれたからである。
 青年は、自給自足の生活をしていた。



「さて、と。あとはこれを乾燥させて……」

 青年は見つけた薬草を使って、水薬を作っていた。
 山奥にたどり着いて、一週間がたっていた。
 青年はこの場所に着てからずっと、こうして水薬を作ったり、研究書を読んだり、研究の成果をまとめてみたり、楽しく自由に過ごしていた。
 そんなある日のことだった。
 青年はいつものように、研究書を読んだり、水薬を作ったりしていた。
 青年には、したいことがたくさんあった。
 王宮ではできなかったこと。
 山奥に来てしまったために、誰かに教わるということはできなくなってしまったが、それは構わない。
 山に来た時から、この山の生態が気になっていた青年は、山を歩くことにした。



 ひたすら山を歩いていると、拓けた場所に出た。
 そこには湖があり、花も咲き誇っていた。
 青年は、空を見上げた。
 暑くもない、ちょうど良いひざし。このままここに寝転がって寝てしまえば、どんなに気持ちいいのだろうか。
 青年は、周りをキョロキョロと見回し、ふと思った。
 今はもう王子ではない。何をしても、怒るものなどいない。
 青年は気持ちよさそうに寝転がった。
 そして、寝入ってしまった。



 青年が気持ちよく寝入っていると、ドカンッ、と、大きな爆発音が聞こえた。
 青年は飛び起き、何が起きたのか確認しようと、辺りを見回した。
 すると、湖のほとりに、奇妙な服を着た、金髪の、翼の生えた女性が倒れていた。
 その女性は、血だらけだった。
 青年は女性に近づき、まず脈があるか確かめた。
 まだ、生きている。
 青年は女性に手をかざした。

「大地に満ちたる命の息吹よ。彼の者を癒したまえ」

 青年が言うと、女性の傷は、あっという間に治っていった。
 青年は、ペチペチと頬を叩いて、呼びかけた。
 普通、傷が治ったからといってすぐに目覚めることはまずない。だが、青年は気が動転していて、それに気づかなかった。
 何回か女性の頬を叩くと、驚くことに、女性は目を覚ました。

「あの……」

 女性に話しかけようと、青年が口を開くと、女性はまだ状況を把握していないだろうに、体を起こし、後ずさり、目を見開いて、顔を青ざめさせた。
 青年は戸惑ったが、とりあえず自分のことと女性が倒れていたことについて話すことにした。

「はじめまして。僕の名前はファイネスト。ファイネスト・リッツァといいます。ファイ、と呼んでください。理由は言えませんが、この山に暮らしています。僕はさっきまで寝ていたのですが……、何かが落ちる音で目が覚めました。もしかして、ありえないとは思いますけど、貴女が落ちてきたのではないですか? そして、貴女は傷を負った。あぁ、言いたくないのなら構いません。でも、もしよろしければ、あなたのお名前をお聞かせください」

 女性はまだ顔を青ざめさせている。
 青年――ファイ――が何も言わずにその場に立った。しばらくすると、女性が深呼吸をし、話しかけた。

「わ、私の名前は、ユリアといいます。信じられないとは思いますが、ご覧のとおり、天使です。あの、貴方が私を助けてくださったんですね?」

 女性――ユリア――は確認するように言った。

「そうですが、なぜそれを? 貴女は気を失っていたように見えたのですが」
「気を失っていましたし、痛みもありました。私は死んでしまうのか、と諦めていた時に、聖なる光が降り注いだのです。そして、声が聞こえたのです。貴方が私を呼ぶ声が。そうなれば、答えは一つ。貴方が助けてくださったのだ、と。助けて下さり、ありがとうございました」

 そこで一旦口を閉じ、迷うような表情を浮かべた。が、すぐに消えた。

「助けていただいたのです。全てお話しましょう。長くなりますし、聞かれたくないことばかりです。どこか、落ち着いて話せる場所はありますか?」
「それなら僕の家でいかがでしょう? 幸い、山の奥にありますし、誰かが来ることもありません」

 ユリアは頷いた。

「では、お願いします」

 立とうとしたが、ふらついた。

「まだ体力が回復していないのでしょう。僕に捕まってください」

 ふたりは共に歩き、ファイの家へと向かった。



「これは……」

 ファイの家を見て、ユリアはぽかん、と口を開けている。

「大丈夫です。見た目はこんなですが、中は汚くありません」

 ファイの言った通り、家はボロかった。蔦が絡まり、今にも崩れそうだ。

「……あ、すみません。失礼を」
「いえ。気にしていませんよ。誰しも思うことですし。ついてきてください。案内します」

 ユリアはおそるおそる、といったふうにファイの後をついていった。
 案内されたのは、大きな部屋だ。机と椅子があるが、それ以外のものはない。

「座ってください。お茶でも入れましょう」
「お構いなく」

 ユリアは座り、辺りを見回した。

――こんなに大きな家で、あの人は何をやっているのだろう。
――どうしてこんなに山奥で、一人で暮らしているのだろう。

「お待たせしました」
「い、いえ、全然待ってません」

 ファイはお茶を置き、自分も席に座る。

「こほん。では、お話します。なぜ、私があんなところに墜ちてしまったのか。いえ、まずは、天使が何か、というところですね」

 まず、私たちは、天界と呼ばれる、雲の上に住んでいます。特別にやることは変わりません。人間と似たようなものです。翼がある以外は。
 私たちの年代は、学校というものに通っています。学校というのは、教育、すなわち、知識を学ぶところです。私は学校の行事の一つ、修学旅行、というものに参加していました。学習の最後に、人間界に旅をしよう、というものでした。そうして、私たちは人間界にやってきました。いえ、来る予定だった、という方が正しいのでしょうか。
 私は、皆とはぐれてしまいました。浮かれていたのもあったと思います。混乱してしまった私は、翼をうまく動かせなくなってしまいました。天使は丈夫で、墜ちても死にはしないので、目をつぶり、衝撃を待ったのです。そのあとは、ご覧のとおりです。

「ふむ。なるほど。天使というものを信じてはいませんでした。が、存在は御伽噺程度には聞いていました。その上、この目で見てしまったのですから信じないわけにはいかないでしょう」

 そう言うと、ファイは考え込むような仕草をした。

「……貴女は行くところはありますか?」
「恥ずかしながら、ありません。図々しいですが、ほかの天使たちが天に帰る一週間後まで、ここにいさせていただけませんか? 一応、はぐれた時の注意はありましたので、ほかの天使たちが探しに来ることはありません」
「それは構いません。……が、食事が質素なのですが、よろしいでしょうか」
「もちろんです。贅沢は言いません。ファイさんがしていることの邪魔はしません。私に出来ることならなんでもします。一週間、よろしくお願いいたします」

 ユリアは頭を下げた。



 それから一週間の間、ファイはいつものように生活していた。違うのは、ユリアがいたこと。
 ユリアには薬草を探してもらったり、掃除、洗濯をしてもらった。
 ファイにとって、それはとても楽しい一週間だった。

 ユリアは、もうこの家を出ていく。いや、仲間の元に帰っていくのだ。

「一週間、ありがとうございました。お世話になりっぱなしで、なんとお礼を言ったらいいのか……」
「いえ、僕の方こそ。助かりましたし、多少……、いえ、とても充実した一週間でした」

 ふたりは見つめ合った。

「もう、行ってしまうのですね」
「えぇ。私の居場所は、あそこですから。……あの、もし、私が……いえ、なんでもないです」
「なんですか? そこまで言われたら気になるじゃないですか」
「い、いえ。気にしないでください。それよりも、あの、目をつぶって頂けませんか?」
「……? わかりました」

 少し疑問に思ったファイだったが、この一週間でユリアの性格はわかっている。傷つけられるなんてことはないだろう、と思ったので、素直に目を閉じることにした。
 不意にユリアの手がファイの頬へと添えられ、そして、何か柔らかいものがファイの唇にふれた。
 驚いたファイは、目を開いた。
 目の前に、ユリアがいた。ファイの唇にふれたのは、ユリアの唇だった。

「!?」

 目を見開き固まるファイ。だが、すぐに柔らかいものは離れた。

「……嫌、でしたか?」
「い、嫌というわけでは……」
「なら、良かったです。では、さようなら」

 ユリアはファイに何も言わせず、飛んでいった。



――天界――

 ユリアは無事、天使たちと合流し、天界へと戻ることができた。

「ユリア、どうかした? もしかして、人間になにかされた?」

 友人の一人が、ユリアに問いかける。

「いえ、なんでもありません」
「ならいいけど……。顔色、悪いよ?」
「大丈夫です。心配してくれてありがとうございます」

 ユリアは終礼が終わるとすぐに、家に帰った。
 家に帰ると、妹――ミリナ――がいた。

「お姉さま、お帰りなさい」
「ただいま。ごめんね、ちょっと一人にさせて」
「……? わかりました」

 自室に戻り、ベッドに突っ伏した。

――どうして私は人間じゃないの?
――どうして天使は人間と一緒に暮らしていないの?
――どうして私は、こんなところにいるの?
――どうして私はあの人を好きになってしまったの?
――どうして私は……。

 ユリアは、長いあいだ、問いかけていた。

――神様、人間に恋をしてしまった私は罪人ですか?
――罪人? 罪人なら、堕ちて、堕天使になればあの人と一緒になれる?

 ふと、いいことを思いついた、とばかりに顔を上げる。

「今すぐでいいですよね。うん。ミリナや、父様、母様、……皆と別れるのは辛いけど、でも、私はあの人と一緒にいたい」

 ユリアは決心し、家を飛び出る。

「お姉さま!?」
「ごめんね、ミリナ。私、どうしても行かなければならないの。場合によっては、もう会えないかもしれない。それでも私は行きたいの。父様や母様にも伝えておいて。じゃあ、……さよなら」
「待って、お姉さま! 待って!!」

 ミリナの声が聞こえたが、振り切る。


――私は、あの人に会いたい。


 天界と下界――人間が住むところ――をつなぐ門へ到着したユリア。

「ねぇ、門番さん。通してくれないかしら?」

 ユリアの翼は、もう、半分黒くなっていた。

「ユリア様!? その翼は……。いえ、長老様方をお呼びしてきます。お待ちください」
「それはできません。通してくれないというのなら……、斬ります」

 ユリアはどこからか出した剣を構える。

「殺しはしないわ。さあ、選んでちょうだい。速やかに私を通すか、それとも、私に斬られるか」
「申し訳ございません。ユリア様。通すことはできません」

 門番の男もユリアと同じように剣を出した。

「勝ち目がないのはわかっているでしょうに」

 剣を構えた門番の男を、ユリアは一瞬で斬り伏せた。

「私は、あの人に、ファイさんに、会いたいの」

 門をくぐり抜けて、天界の端から飛び降りた。


――空は、こんなにも輝いているものだったのね。


「ファイさん!!」

 庭でまた、研究をしていたファイは驚いた。
 先ほど帰ってしまったユリアとそっくりな、髪も翼も真っ黒な天使が降りてきたからだ。ユリアとそっくりな、というか、ユリアに見える。

「え? どなたですか? まさか、ユリアさんですか?」
「よかったです。わかってくださったんですね」
「どうしたんですか? 髪と翼、真っ黒になってるじゃないですか?」

 少し悲しげに目を伏せるユリア。

「ふふ……。黒は嫌いですか?」
「い、いえ、むしろ好きな部類に入りますが……」
「じゃあいいじゃないですか。あの、ですね。その……」


「私と、け、結婚してくださいませんか?」


 ファイは驚いて目を見開く。

「え? ユリアさんは、僕と結婚してくださるんですか? ちょ、ちょっと待ってください。落ち着きたいです」

 そう言って、自分の頬をつねってみた。

「あ、痛い。夢じゃない? あれ? ユリアさん、昨日帰っていったよね? ……落ち着け自分」

 すぅ……、はぁ……。深呼吸をして落ち着かせる。

「僕からも、お願いします。僕と、結婚してください」

 ユリアの目から涙がこぼれた。

「ありがとうございます。ファイさん……! 大好きです!」
「僕も、大好きですよ、ユリアさん。思っていたよりも、照れますね」



 ユリアとファイが結婚して、五年の月日が経った。
 二人には子供ができ、その子供には真っ白な小さな翼があった。
 子供の名前はフィリア。可愛い四歳の女の子だ。
 五年間は平和だった。黒く染まった翼を気にすることもなく、二人で、子供が生まれてからは三人で、和やかに過ごしていた。
 だがそれは、突然、終わりを告げた。



 どうしてだろう。堕ちてしまった妹が、剣を手にして目の前にいた。

「お姉さま。どうしてお姉様は堕ちてしまわれたのですか? それほどまでに、あの男を愛しておられたのですか? どうして、私をお側に置いてくださらなかったのですか? 堕ちてしまわれたので、私はお姉様のお側にはいられなくなってしまいました。それでも、構わないと考えられたのですか? それとも、私のことなどどうでもよい、と?」

 私よりも深く堕ちてしまった妹は、赤く染まった瞳から涙を流しながら問うてきた。
 堕ちる、という言葉には、三つの意味がある。まず、髪だけが黒くなってしまう。それは、生き物を傷つけてしまったり、友人などを悲しませてしまったり、そういったものだ。二つ目は、私のように、翼も黒く染まってしまう。人間に恋をして、そして、人間と一緒になりたいと思った者がそうなる。
 最後に、瞳が赤く染まってしまう。これは、最大の禁忌を犯した者がそうなってしまうらしい。私にはわからないけれど、そういうものだと教えられた。
 別に、妹のことが気にならなかったというわけではない。むしろ、気にしていた。父様のことも、母様のことも、友人のことも、もちろん、妹のことも。それでも私は、ファイさんと添い遂げたかった。
 家族や、友人、いろいろなものをおいてきた私が、今更何を言えようか。

「そう、ですか。私は、お姉様が言ってくださると信じていました。嘘だったとしても、私を忘れてなどいない、と、どうでもいいわけがない、と、言ってくださると、信じていました。そうですか。それほどまでにお姉様はあの男に囚われてしまっているのですか」

 言い終えると、妹はおもむろに、抜き身で持っていた剣で、私の体を刺した。
 動きが自然すぎて、反応できなかった。
 なぜだか、痛みはなかった。その代わりに、涙が溢れた。

「どう……して……?」
「堕ちてしまった天使といえども、まだ息はあるでしょう。お姉さまは死んで私のものになるのです。あの男ではなく。安心してください。お姉様の娘は、私が育てます。あの男も殺してしまいたいところですが、この剣にはお姉さまの血が付いていますし、諦めます。……と、もう、聞こえていませんか」



――私は、お姉様が大好きだった。ただ、それだけ。


 あの男が見ていたけど、そんなもの、知らない。私は、お姉様の娘を、立派に育てるの。

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